能楽師から学ぶ古典文学——日本語日本文学科「能楽ワークショップ」を開催

2026.08.19

【イベントレポート】金春流シテ方能楽師の中村昌弘師が登壇

7月16日、成瀬記念講堂で能楽ワークショップが開催されました。本ワークショップは、日本語日本文学科の石井倫子教授による授業「古典文学講義(中世)-1」の一環として実施されたもので、講師には金春(こんぱる)流シテ方能楽師の中村昌弘(なかむらまさひろ)師をお迎えしました。

金春流シテ方能楽師の中村昌弘師。この立ち姿は、金春流における「月を見る」ことを示す型(かた)
金春流シテ方能楽師の中村昌弘師。この立ち姿は、金春流における「月を見る」ことを示す型(かた)

能の名作『角田川(すみだがわ)』の謡(うたい)に挑戦

授業の冒頭、中村師は『角田川』の一節の謡(うたい=能の舞いに添えられる歌謡)を披露してくださり、学生たちは広い成瀬記念講堂に朗々と響くその声に聴き入っていました。

『角田川』は、さらわれたわが子を求めて京都から隅田川(現在の東京都)までやってきた母の悲劇を描いた、能を代表する名作です。「隅田川」と記載する流派もありますが、金春流は「角田川」と書いて「すみだがわ」と読みます。京都からわが子を探して旅を続けてきた母は、隅田川のほとりで、子どもが1年前に亡くなっていたことを知らされます。

学生たちは、能の詞章(ししょう=上演で謡われる言葉)が記された「謡本(うたいぼん)」を手に、中村師の力強く響く声に続いて謡を体験しました。今回挑戦したのは「角田川」の一節、絶望の淵にいる母が念仏を唱えるなかで亡き子の幻影が現れ、「あれはわが子か」「母にてましますかと」と言葉を交わす、最も美しく切ない場面です。学生たちは文字だけでは味わえない「音」としての古典文学を体感しました。

写真左から 謡に挑戦する学生/『角田川』の詞章
写真左から 謡に挑戦する学生/『角田川』の詞章

構え・型・すり足の体験

続いて行われたのは、能の基本動作の体験です。まずは、能の基本姿勢である「構え」に挑戦。膝をわずかに緩め、重心を安定させて立つことで、能特有の美しい姿勢をつくります。能面を着けて演じることを想定しながら体験すると、その難しさがよく分かりました。

その後は「型」の体験へ。能の型とは、登場人物の感情や状況を表現するために受け継がれてきた決まった動作のことです。泣く場面を表す「シオリ」という型では、手の位置や指先の角度まで繊細な表現が求められます。

さらに学生たちは壇上で「すり足」にも挑戦。足を床から大きく離さず滑らせるように進む能独特の歩き方です。姿勢を維持したまま歩くことの難しさを実感しながら、能楽師の高度な身体技術に触れました。

目の上に手をかざし、「泣いている」様子を表現する「シオリ」の型を練習。手の位置や角度がわずかに異なるだけで、印象が大きく変わります
目の上に手をかざし、「泣いている」様子を表現する「シオリ」の型を練習。手の位置や角度がわずかに異なるだけで、印象が大きく変わります
すり足の稽古の様子。爪先を一度持ち上げてから地面に沈み込むように運ぶ、独特の歩き方を身につけます
すり足の稽古の様子。爪先を一度持ち上げてから地面に沈み込むように運ぶ、独特の歩き方を身につけます
正しい姿勢を保ちながら歩くため、頭上に扇を載せて歩く練習も行いました
正しい姿勢を保ちながら歩くため、頭上に扇を載せて歩く練習も行いました

能面の奥深さ——能衣装の体験も

また、能面はわずか1センチほど角度が変わるだけで表情が異なって見えます。顔を上向きにすることを「照る」、下向きにすることを「曇る」といい、能独特の表現技法の1つです。これは能面の目の見え方に由来しており、上向きでは明るく、下向きでは陰りのある表情に見えるとされます。

さらに、能面には目・鼻・口に穴が開いているものの、その開口部は非常に小さく、面をつけると視界の大半が遮られます。足元はほとんど見えない状態で演じるため、高度な身体感覚と舞台感覚が求められます。

続いて、希望した学生が1名、能装束の着用まで体験しました。まずは蔓(かずら=馬の尾の毛で作られた髪)をひもで頭に固定し、その上から能面を着けます。金春流では、能面を両手で持ち、面に向かって一礼してから着けるのが作法です。その後、装束も身にまといました。能衣装を身につけた学生は想像以上に狭い視界と衣装の重量感を他の学生に語りました。

若い女性を表す「小面(こおもて)」と、嫉妬や恨みに狂う女性を表す「般若(はんにゃ)」など、能にはさまざまな面があります
若い女性を表す「小面(こおもて)」と、嫉妬や恨みに狂う女性を表す「般若(はんにゃ)」など、能にはさまざまな面があります
実際に能舞台で使用する能面、鬘、衣装を体験しました
実際に能舞台で使用する能面、鬘、衣装を体験しました
写真左から 能衣装を体験した学生/授業にて紹介いただいた能面
写真左から 能衣装を体験した学生/授業にて紹介いただいた能面

クライマックスは蜘蛛の糸——『土蜘(つちぐも)』が繋ぐ伝統と現在

ワークショップの締めくくりを飾ったのは、能の人気演目『土蜘』の劇的な演出体験です。『土蜘』は、病に伏した源頼光の前に現れた僧の正体が土蜘蛛の精だったという伝説を題材にした物語です。蜘蛛の精と頼光一行との激しい戦いが描かれ、迫力ある演出でも知られています。

今回のワークショップでは、この『土蜘』の最大の見せ場である「蜘蛛の糸投げ」のサプライズ体験が行われました。本来、舞台で使用される本物の糸は非常に高価な小道具ですが、「能を身近に楽しんでほしい」という中村師の計らいにより、特別に体験用の道具が用意されました。

中村師から「腰が座っていないと綺麗に飛ばない」とコツを教わり、学生が力いっぱい腕を振り抜くと、真っ白な千筋の糸が傘のように空中に大きく広がりました。伝統芸能が持つダイナミックで華やかな一面を全身で体感し、充実したワークショップは幕を閉じました。

授業担当 石井倫子教授からのコメント

室町版2.5次元ミュージカルである能は、ただ内容を理解して、作中に古典文学がどのように摂取されているかを学ぶだけでは、エンターテインメントとしての面白さを十分に理解することはできません。授業では謡・囃子、所作、面・装束などについても折に触れ説明していますが、座学には限界があるため、能楽師の方々のご協力の下、ワークショップ形式の授業を取り入れています。みなさんサービス精神旺盛で、いろいろ工夫を凝らしてくださるので、ここだけの本音のお話を伺ったり、さまざまな実技を行ったりすることで、能への興味がますます深まったと受講者からも好評です。

学生たちは、古典文学を「読む」だけでなく、「声に出し、身体で表現する」ことで理解を深めました。伝統芸能の魅力と奥深さに触れたワークショップは、学びの多い時間となりました。