明治の女性実業家 広岡浅子
明治の女性実業家 広岡浅子
広岡浅子とは
京都出水の三井家(のちの小石川三井家)に生まれた浅子は、江戸末期の良家の子女の例にもれず、幼少の頃から裁縫、茶の湯、生け花、琴の稽古を課せられていましたが、彼女自身は男兄弟が学ぶ漢籍に興味がありました。しかし13歳の時に読書を禁じられ、「女子と雖も人間である。学問の必要がないという道理は無い、且つ学べば必ず修得せらるる頭脳があるのであるから、どうかして学びたいものだ」と考えていました。数え年17歳の時、大阪の豪商加島屋の次男、広岡信五郎と結婚、独学で簿記や算術、商業に関することを学びました。3年後に明治維新を迎え、廃藩置県により全国の大名への貸し付けが回収不能に。窮地に陥った加島屋を立て直すため、商売に関心のない夫や若い当主に代わって事業を牽引し、銀行事業や炭鉱開発等に進出します。
日本女子大学校創立発起人となる
炭鉱事業が佳境に入ったころ、大和の林業家土倉庄三郎の紹介で、女子大学校創立運動を開始したばかりの成瀬仁蔵の訪問を受けました。成瀬から手渡された著書『女子教育』を炭鉱事業の合間に読んだ浅子は、繰り返し3回読み、「感涙止まなかった」と言います。浅子は土倉庄三郎と5千円ずつを活動費として拠出し、創立発起人として物心両面において成瀬の女子大学校創立運動を支援しました。
三泉寮名誉寮監
日本女子大学校開校から5年後、軽井沢の三井家別荘の敷地内に三泉寮が開寮しました。寮舎を寄贈した小石川三井家当主の三郎助は浅子の甥にあたりますが、歳が近く、姉弟のように育ちました。浅子は成瀬の夏季寮の構想に賛同し、みずから寮監を引き受け、学生たちの指導にあたりました。
桜楓会補助団発起人
第1回卒業生は、卒業後の学びと母校への助成を目的として桜楓会を結成しました。会員は家庭部・教育部・社会部に分かれて研究を行い、事業としての実業部には雑貨・書籍・銀行・製菓・園芸・牧畜の6部が設置されました。1905年には三井三郎助夫人寿天(すて)の寄附により桜楓館が建設されています。浅子は桜楓会を経済的精神的に援助するための組織として桜楓会補助団の設立を発議し、自らも桜楓会の会合に出席、実業家として、また一家の主婦として若い会員たちを励ましました。
歌人 広岡浅子
浅子は良家の夫人の嗜みとして、和歌を学んでいたようです。桜楓会機関誌『家庭週報』にも浅子の和歌が掲載されています。成瀬記念館には、浅子のご子孫から稿本『草詠』全6巻が寄託されています。男勝りと思われがちな浅子ですが、稿本にしたためられた文字は女性らしく繊細で、花鳥風月をはじめ日本女子大学校や桜楓会について詠まれた歌もあります。浅子の没後100年を記念して、本学日本文学科の高野晴代教授(現名誉教授)監修による『草詠』が2019年に刊行されました。
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『草詠』全6巻
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『草詠』春
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高野晴代監修 広岡浅子『草詠』