当館のご紹介

当館のご紹介

広く女子教育の進展に寄与することを願って設立されました

創立80周年記念事業の一環として、1984(昭和59)年に竣工。正門入って左手に建つ赤煉瓦のロマネスク調の建物です。本学の創立者成瀬仁蔵の教学の理念と学園の歴史を明らかにし、広く女子教育の進展に寄与することを願って設立されました。
内部には記念室・瞑想室、展示室、図書閲覧室などがあり、展示室では年4回ほどの展示替により、主に学園史を中心にした資料の紹介をおこなっています。学園の文書館、博物館として、様々な活動をおこなっている記念館ですが、博物館相当施設に指定されていますので、学園外の方々でも自由に入館することが出来ます。
アーチ型の鉄の扉を押してロビーに入ると、そこにはステンドグラスを通した光が柔らかに満ちています。大きな節目のある厚みをもった木材と、白い壁で構成された館内は、学園内で最も静謐な空間でもあります。

附属豊明小学校・幼稚園から成瀬記念館へ

現在、成瀬記念館が建っている場所には、以前、附属豊明小学校・幼稚園の校舎がありました。1905(明治38)年竣工の木造校舎です。その後、小学校・幼稚園は目白通りの向かい側へ移転、国文学部が教室として使用したので国文館と呼ばれ、関東大震災にも耐えました。昭和に入ると二類館と称し、家政学部二類の教室となりました。戦後は、附属高等学校目白校校舎、通信教育部事務局、さらに通信教育部移転後は事務系の諸機能があつめられ、一号館と呼ばれました。
成瀬記念館の内部には、取壊された一号館の木材の一部が再利用されています。

設計者・浦辺鎮太郎(1909-1991)

浦辺鎮太郎氏
浦辺鎮太郎氏

浦辺鎮太郎氏は、岡山県倉敷市に生まれ、倉敷絹織(現・株式会社クラレ)に入社、社内の施設のほか、岡山県内の公共施設などの設計を手がけました。その後独立し、活動の場を近畿・関東にまで広げました。倉敷のアイビースクエア、大原美術館分館、横浜の大佛次郎記念館などの設計で知られています。 成瀬記念館の設計にあたり、浦辺氏は『成瀬仁蔵著作集』などの資料を丹念に読んだと伝えられています。成瀬記念館の意匠には、成瀬仁蔵と日本女子大学に対する浦辺氏の深い理解と愛情が注がれています。

成瀬記念館の意匠

正門を挟んで向い合う豊明小学校(左)と豊明館(教育学部校舎)
正門を挟んで向い合う豊明小学校(左)と豊明館(教育学部校舎)

成瀬記念館の外壁には、赤い煉瓦タイルが用いられています。これは、正門を挟んで向かい合って建つ成瀬記念講堂と呼応するように意図されています。1906(明治39)年竣工の豊明図書館兼講堂(成瀬記念講堂の前身)は、関東大震災に遭うまで、外壁を煉瓦で覆われた壮麗な建物でした

豊明図書館兼講堂(左)と豊明館(教育学部校舎)
豊明図書館兼講堂(左)と豊明館(教育学部校舎)

ロビーから2階の展示室に続く階段の親柱や手摺は、取壊された一号館の階段を模しています。また親柱には、一号館の木材が用いられています。

階段の手摺子(手摺を支えている垂直の部分)は、学園に集う人々が手をあげて力を合わせている様子をあらわし、窓上のひさしは、人と人とが対面し、語り合う姿をイメージしています。

階段を上りきった正面には、成瀬仁蔵の胸像が置かれ、その後ろの壁面には円形のステンドグラスとその周囲を取り囲む木の板が見えます。これは「生命の樹」と名付けられ、成瀬の生涯学習の構想を表した「桜楓樹」と「後年のかたみに残さん」と第二回創立記念日より毎年続けられている木植えの行事にちなんで制作されました。ここにも一号館の木材が再利用されています。

階段の手摺子
階段の手摺子

フレスコ画とステンドグラス

ロビーの両壁面には、6点のフレスコ画が掲げられています。「春の桜」「夏のコスモス」「秋の楓」「目白台の冬」「天に鳥」「地に動物」の6枚で、学園の四季と天地の広がりを象っています。
階段の上に見える西の壁のステンドグラスは「校章」。本学の校章をデザインしています。相対する玄関上の東の壁面には、校歌に歌われる「雲間をいずる」光を象ったステンドグラスが嵌め込まれています。
作者はいずれも作野旦平氏(1931-2000)。武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)を卒業後、イタリアでフレスコ画とモザイクを学びました。主な作品には、浦辺鎮太郎氏が手がけた倉敷市民会館のガラスモザイク、目黒区総合庁舎(旧千代田生命本社)のガラスモザイク、遠山記念館(埼玉県川島町)の天井フレスコ画、宝塚カトリック教会のステンドグラスなどがあります。