日本女子大学校が創立された後も浅子は大学を足繁く訪れ、ある時は学生とともに学び、ある時には学生たちを導き、物心両面の援助を続けました。
 日本女子大学校に止まらず、晩年の浅子は若い女性たちの育成にも力を注ぎました。1914(大正3)年、御殿場の別荘で女性のための合宿勉強会を行います。(この勉強会はこれ以降、夏ごとに開催されました)
 ここで学びを深めた女性たちの中に、婦人運動家・政治家市川房枝*1、児童文学者村岡花子、ジャーナリスト小橋三四子*2(日本女子大学校一回生)らがいました。その中でも浅子が見込み、援助を惜しまなかった人が井上秀*3(日本女子大学校一回生)。彼女はアメリカ留学後、本学の教育に身を捧げ、初の女性校長(第4代)に就任します。
 浅子の女子教育へのゆるぎない信念が多くの〝若木〟たちを育て、社会を変える力を蓄えて、また次の世代の女性たちへと受け継がれて行ったのです。

 

  • *1:市川房枝はその政治活動の先駆けとして、1920(大正9)年に平塚らいてうとともに「新婦人協会」を設立します。平塚らいてうは日本女子大学校三回生です。
  • *2:小橋三四子は国文学部卒業後、成瀬仁蔵の要請に応え、新しく組織された本学卒業団体である桜楓会の機関紙の編集に携わります。以後ジャーナリストとして活躍し1915(大正4)年「婦人週報」を発刊、女性の地位向上を広く社会に訴えました。
  • *3:井上秀は広岡浅子の長女である亀子の学友でした。学問への熱意を浅子に見込まれ、結婚し一児の母でありながら日本女子大学校家政学部に入学。卒業後は桜楓会の幹事長に就任。本学附属高等女学校教諭を経て、浅子の勧めでシカゴ師範学校に留学します。帰国後は本学教授となり、成瀬仁蔵の構想の下に家政学の確立・発展に貢献、1931(昭和6)年に第4代校長に就任。
    秀の長女が菅支那(日本女子大学名誉教授)です。英文学部卒業後米国に留学し、帰国後は本学教授を務めました。

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