江戸時代末期に生まれ、明治後半に日本初の女子高等教育機関(日本女子大学校)の創立に尽力した広岡浅子。大同生命の創設(※)などにも携わり、明治の実業家として高名だった同氏。女子教育に“あさ”を開いた彼女にまつわるエピソードを紹介します。

 広岡浅子氏はNHKの連続テレビ小説(2015年度下期)「あさが来た」のヒロインモデルです。

 

※大同生命保険株式会社では詳しいHPを開設されています。ご覧下さい。

 特設サイト『大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”』

●浅子の生まれたころ

 1849(嘉永2)年10月18日、京都油小路出水の三井家(後の小石川三井家)当主、三井高益の四女として生まれました。1849(嘉永2)年、この年は、乃木神社や日露戦争で有名な乃木希典将軍が生まれた年でもあります。嘉永年間は7年まで続き、ペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀沖に来航し、またロシア大使プチャーチンが開国・通商を求めて長崎に来航と、江戸幕府に対して海外からの圧力が強まってきた時代です。

 1849(嘉永7)年には日米和親条約締結。東海地震・南海地震・豊予海峡地震などが立て続けで発生して、年末に安政と改元されました。政情不安、世の中が落ち着かない時代になりつつありました。


●浅子と相撲

 浅子はたいへんなおてんばでした。相撲が大好きで、店の丁稚らを相手に相撲をとるほどでした。相撲で髪がぐちゃぐちゃになり母親から叱られると、髷(まげ)を根元から切り捨ててしまい、「これで小言を言われない」と言ったそうです。

●浅子の結婚

 浅子は2歳で結婚の相手が決められました。その当時の女性は自由な生き方を認められず、「女三従」といわれ、「幼にしては父兄に従い,嫁しては夫に従い,夫死しては (老いては) 子に従う」との男性中心の世の中でした。「女性に学問は不要」とされ、浅子にも一切の読書は禁じられてしましました。良家の子女として幼少から琴・茶道・華道・裁縫などのおけいこごとをさせられていました。

 1865(慶応元)年、15歳で許嫁の大阪「加島屋」広岡家次男・信五郎のもとへ嫁ぎました。

●浅子と加島屋

 浅子の嫁いだ加島屋は大阪で1、2を争う豪商でした。夫の信五郎は万事おっとりとした性格で、浅子が簿記や算術を独習するのをとがめませんでした。信五郎はいわゆるボンボンで仕事は番頭まかせ。謡曲や茶の湯など遊興三昧でした。がんばり屋の浅子は寸暇を惜しんで猛勉強。

 徳川幕府から明治新政府に政権がかわり、貨幣制度改革による大名貸しの棒引きで両替商の加島屋は大打撃を受けます。

 浅子は加島屋の立て直しに奔走します。金策に飛び回り大名の足軽部屋で一晩すごし、相手を閉口させ、話をつけるなど加島屋のため努力しました。そのおかげで加島屋は破綻せずに商いを続けることができました。


●浅子とピストル

 浅子は1884(明治17)年ごろ、石炭ビジネスに積極的に乗り出します。石炭の販売と輸出を手がける「広炭商店」を設立しましたが、なかなかうまくいきませんでした。生家・三井家の「三井物産」から運用資金を借りながらの運営でしたが、事業整理に追い込まれます。その後、1886(明治19)年に潤野炭鉱を買い取り、炭鉱経営に携わります。浅子はこの潤野炭鉱で10年あまり経営の陣頭指揮をとり、荒くれの炭鉱夫を監督して、坑内にも出入りしたとのことです。その際、ピストルを服の中に忍ばせて行動したというエピソードは有名です。

 1889(明治22)年に政府が潤野炭鉱を買い上げ、浅子は巨利を手にすることができました。

●浅子のビジネス

 浅子の夢「銀行経営」の実現として、1888(明治21)年1月に合資会社「加島銀行」が発足しました。本店は大阪土佐堀で、京都・兵庫・岡山・広島・東京に支店を置き、関西の有力銀行として発展していきます。初代頭取は第九代加島屋広岡久右衛門正秋、設立発起人は広岡信五郎ですが、信五郎の背後に浅子がいて実質上の経営をしていました。


●浅子と女子教育

 浅子は幼いときに、女性ゆえの「読書禁止」とされたことに不満を持っていました。加島屋に嫁いだあと、夫信五郎の理解によって、事業家への基礎を学ぶことができました。

 かねてから「女性も学問が必要」と考えていた浅子の前に1896(明治29)年、日本で初めての女性のための大学をつくりたいとの大志を抱いた成瀬仁蔵が、浅子に支援を求めて現れました。成瀬の著書「女子教育」を読んで感動した浅子は、成瀬に女子大学設立のための全面的な支援を約束します。

●浅子の服装

  浅子は洋装を好みました。和服より行動するのが楽だし、合理的な浅子にとっては軽快だったのでしょう。パンツスーツが当たり前の現代の装いに比べれば、まだまだドレッシーですが、浅子が現代にいたら、どんな服装を好んだか興味がつきません。
(このページのイラストは、浅子の洋装イメージです)

●浅子と三泉寮

  日本女子大学校の開校から3年後の1904(明治37)年の夏、過労から体調を崩した成瀬は、軽井沢の三井家の別荘で静養と思索の時を過ごしました。清澄な空気の中でひと時の休息をとった成瀬は健康を取り戻します。この時、成瀬はアメリカ留学中に経験した高原でのサマースクールを思い出し、本学をはじめ日本の大学生たちにそうした機会を与えることができないかと考えました。翌年の夏、再び軽井沢を訪れた成瀬は、その思いを言葉にします。

 それを聞いた当主の三井三郎助(高景)はひそかに自邸の敷地に寮舎を建設し、翌年の夏に成瀬を招いて披露したのでした。この寮は「三泉寮」と名付けられました。三井の「三」とともに、成瀬が経験した生命を養う水の源である三つの泉、「健康の泉」「智識の泉」「心霊の泉」を重ね合わせています。
成瀬の夏季寮構想に賛同した浅子は、自ら名誉寮監として学生たちと寝食を共にし、指導しました。開寮式の準備は浅子の監督のもと、学生たちによって整えられました。

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