成瀬仁蔵の生涯

 成瀬仁蔵は1858(安政5)年6月、現在の山口県山口市吉敷に士族の子として生まれ、1919(大正8)年3月、逝去しました。その60年にわたる生涯の活動は大きく3分野に分かれます。

 第一の女子教育の活動は、梅花女学校の主任教師、新潟女学校の設立とその教育に始まります。新しい飛躍を志して渡米し、女子高等教育構想を固め、帰国後、さまざまな困難をしのいで、日本女子大学を創設。特色ある教育活動を展開しました。

 第二に教育界では、女子教育者および女子教育に関心のある人々を組織して毎月会を開く一方、教育調査会や臨時教育会議の委員として、教育全般について提言を重ね、多くの著作を発表しました。

 第三の思想(精神)活動としては、帰一協会が挙げられます。若くして家族を失った成瀬は、キリスト教の牧師として活躍した時期もあり、人間存在についての追究を続けました。帰一協会の活動は国内外で行われ、それは、成瀬の教育活動の根底をなすものであったといえるでしょう。

広岡浅子と成瀬仁蔵

 1896(明治29)年の春、浅子は一人の男性の訪問を受けます。男性の名前は成瀬仁蔵、梅花女学校(現:梅花女子大学)の校長でした。成瀬は3年間のアメリカ留学から帰国し、女子のための高等教育機関を創設しようとしているところでした。

 成瀬は自身の教育方針を記した著書『女子教育』を浅子に手渡し、協力を要請しました。それまでにも浅子の元へは学校設立のための支援の要請がありました。事業で得た利益を社会に還元することには、いささかの迷いもない浅子でしたが、浅子の考える教育方針と異なるため、支援の実現には至りませんでした。

 成瀬に対しても当初、賛否を表明しなかった浅子は、九州の炭鉱へ向かう旅にこの本を携えて行きました。そこには13歳で読書を禁じられた浅子が夢見た、理想の女子教育が描かれていました。「繰り返して読みましたことが三回、(略)之を読んで感涙止まらなかった」浅子は、大阪に戻るとただちに成瀬への助力を承諾します。自ら発起人となり、奈良の林業家土倉庄三郞とそれぞれ五千円ずつを創立資金として提供。「もし事業が成就しない時はわれわれ2人がその費用を引き受けて他の発起人や寄付者には迷惑はかけない」と申し出て、成瀬を感激させました。浅子はその他に寄付金募集の方法を考え、人脈を駆使して政財界の大物に支援を要請するなど、物心両面から成瀬をサポートしました。

 政財界の大物たちの支援を受け、好調なスタートをきった資金集めでしたが、戦争後の不景気と女子高等教育への理解不足から資金集めも難航した時期もありました。また設立地の問題も起こりました。当初、大阪の開校を計画し、天王寺界隈に敷地(現在:府立清水谷高校)も確保していましたが、「やはり、東京に」という声が強くなっていき、大阪での設立を前提に出資した人からは、不満も聞こえました。

 そんな中、浅子を協力にバックアップしたのが、義甥の三井高景でした。浅子の実家小石川三井家(出水家)8代目を継いだ高景は三井財閥の中核として活躍していました。高景夫人の寿天子(すてこ)ともども、浅子に協力を惜しまなかったのです。

 その三井家から1900(明治33)年5月、東京目白台の土地5500坪の提供の申し出がありました。学校用地として、目白台の土地が三井家から寄贈されました。

 翌年の1901(明治34)年、ついに日本女子大学校が開校しました。

成瀬トリビア

●成瀬の顔

 彫りが深く、太く濃い眉毛。目・耳・鼻と各部分が大きく、顔色は浅黒かったと言われています。特に成瀬の「眼」について印象深く記憶してる卒業生が多く「射るが如く」「ギョロ」「キラキラ」とさまざまな表現で語っています。前歯が少しすいていたようです。

 創立時にたくわえていた立派なカイゼルひげは、後ろから見ると、歩く度に顔の両側からはみ出たというエピソードが伝えられています。


●身長は何センチ?

 ほとんどの卒業生が「中くらいより少し低い背丈」「男子としては小造り」と成瀬が小柄であったことを証言しています。

 「五尺三、四寸ぐらい(約160cm)」と語る卒業生もいますが、明治時代の平均身長と残された衣服から推測すると、155~8センチぐらいではなかったかと推測されます。

●声と口ぐせ

 長州藩(現在の山口県)に生まれた成瀬は、「とんぎっちょる(尖っている)」「こうじゃんじゃ(こうなんだ)」など、生涯そのお国言葉を使い続けました。口癖の一つに「サウナケランニャナラナイ(そうでなくてはならぬ)」があり、学生はよく真似をしたといいます。残念ながら成瀬の声は残されていませんが、「重くさびれた」低音の、よく響く声であったそうです。

●健康オタク?

 成瀬は人一倍健康に気を使い、様々な独自の健康法を考案しています。読書の合間にサーベルを振り回したり、自室に手作りの運動器具を取り付けたりと、多忙な日々の中、運動に励んだようで、自転車乗りやテニス、山登り・乗馬・散歩なども積極的に行いました。さらに“食”についてもいろいろと研究しています。

 食後には必ず口をすすぐ習慣があったそうです。

●成瀬の好物

 成瀬がどのような食べ物を好んだか、卒業生がいくつか挙げています。故郷山口の味である鯛の押し寿司と“ういろう”、牛ナベ、大阪寿司、即席汁粉(大福を焼いてお湯をかけたもの)、牛乳に焼いたカキ餅を入れたもの、サツマイモの丸焼き、小魚の干物、ムベの実、西洋梨やぶどうなどの果物。

 中華料理や鰻など、こってりしたものを好んだようです。

●洋書の購入数は東京一

 片時も本を離さなかったと言われる成瀬は、膨大な数の蔵書を残しています。収入のほとんどを本代に費し、丸善洋書部の一番の得意先であったといわれています。

 学校は常に厳しい財政状態にあったため、経理担当の塘茂太郎幹事が本の購入を控えるように懇願すると一時はおさまるものの、しばらくするとまた元の状態に戻ってしまったそうです。


●考えごとは歩きながら

 成瀬の読書法は、立ったまま読み、運動を兼ねてぐるぐる歩きながら思考をまとめるというものでした。そのための書見台がいくつか残されています。二階で成瀬の足音が聞こえはじめると、階下の人々は「あ、先生が考えるためのお歩きだから、静かにしましょう」と言ったそうです。


●最愛の人は八百子(やおこ)さん

 校内の催し物で、クジに書かれた命令に従うという余興が行われました。成瀬が引いた紙には「あなたの最も愛する人の前に行ってお辞儀をしてください」と書かれてありました。学校の創立委員など来賓も大勢列席していた中、成瀬はニコニコと壇上に上がり「私の最も愛する人は、姓は日本女子大学校、名は八百子(学生の総数が当時約八百人でした)」とお辞儀をしたといいます。

●子ども好き

 子どものいなかった成瀬ですが、大変な子ども好きでした。姪や知り合いの子どもをとても可愛がり、子どもたちもよく懐いていました。麻生正藏第二代校長の娘も、歌を教えてもらった思い出を語っています。

 お使いに来た附属豊明小学校の生徒には必ずお菓子を与え、教え子の子どもたちにも「おじいさまですよ」と目を細めて接していたそうです。

●好きな音楽

 かつてキリスト教の牧師であった成瀬の自宅にはオルガンや賛美歌の楽譜が残されており、O! Lord Correct Meを好んだとされています。また、校内の催しものには必ず歌を作らせ、将来は音楽科を設置する構想もありました。その一方、民謡「高い山」を知り合いの子どもに教えたり、越前琵琶を好んだとする話もあり、日本の音楽にも親しんでいたようです。

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