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シリーズ「天職に生きる」
 ──成瀬仁蔵と「食」   (目白キャンパス)

 創立者 成瀬仁蔵の生涯を紹介する新シリーズ「天職に生きる」。

 成瀬はしばしば、自らの生涯の目的は「天職」を全うすることだと日記に記しています。成瀬にとっての「天職」──それは理想的社会を創ることでした。成瀬の行なった様々な活動は、すべてその使命に繋がっていたといえます。本シリーズでは、毎回テーマを決めて様々な角度から人間 成瀬仁蔵を浮き彫りにします。

 今年度のテーマは成瀬仁蔵と「食」。 

「食」は健康のもと
 成瀬は、「天職」を全うするためには、健康な心身が不可欠であると述べています。元来、丈夫な体質でなかった成瀬は、人一倍、体調に気を配っていました。適度な運動、心の休養、新鮮な空気が重要であること、また個々に適した健康法を作り上げることが必要であると指摘しています。
 「食」についても健康を維持するための大きな要素と考えていました。アメリカ留学では、日本と異なる食事の習慣に注目していたことが、日記から読み取れます。朝食の大切さや様々な種類の食物を摂取する必要性を書き留め、「食机は実に最良の学校也」と記しています。
 また、心と身体の密接な関係にも目を向け、「精神も身体と同様に食物によって養われると説きました。明治・大正の時代に、現代にも通じる健康観を確立していたのです。
 

成瀬仁蔵揮毫「健康之基」
「赤堀料理講義録」1910(明治43)年
赤堀料理教場 

「食」は科学
 成瀬の「食」に対する考え方は、日本女子大学校の教育法にも現れています。創立当時、日本では学問として認められていなかった「家政学」を単なる女性の家事労働ではなく、科学に基づく一つの学問として確立しようとしたのです。
 「食」に関するカリキュラムも、「料理」だけでなく、「生理学」「衛生学」「食品化学」「家庭応用理科」などの自然科学系の授業から構成されていました。
 また「研究の実践の場」であった学寮では、寮生が家族単位で生活し、交代で「主婦」の役割を担いました。限られた予算の中で栄養学をもとに献立を考え、調理も自分たちで行なっています。
 成瀬は、個々に適した「食」の研究は、専門家ではなく、家庭の「食」を預かる女性にしかできないと考えたのです。

料理研究

自らを実験台に
 構内に居をかまえ、すでに妻を亡くしていた成瀬の食事の用意は、数人の卒業生が中心となって行なっていました。成瀬はこの毎日の食事も教え子の研究材料にしようとしました。出された食事に対し、成瀬が味、献立のバランス、調理法などを細かく批評し、調理者は自らの反省点も併せてノートに記録しました。
 時には、成瀬自身も料理を指導しました。アップルパイや牛鍋の作り方を教わった思い出を卒業生が語っています。
 また晩年、不治の病に侵され、病床についた際には、自らの食事を病人食の研究に役立てるよう指示しました。その献立は没後、同窓会の機関紙に発表されています。自分にとっての「完全なる食物」を研究し続けた成瀬は、最期の時まで自らを実験台としたのでした。

 


 展示期間=2009年4月8日(水)──5月16日(土)
 開館時間=午前10時 ── 午後4時30分(土曜日は正午まで)
 休 館 日=日・月曜日、祝日 
 

成瀬仁蔵 その生涯 ──"永劫(とわ)"に生く 
                        (西生田キャンパス)

 1919(大正8)年3月4日、本学創立者 成瀬仁蔵は60歳でこの世を去りました。学園は深い悲しみにつつまれ、弔問客の応対などにも追われ、9日の葬儀まで休校となりました。

 各新聞も一斉に成瀬の逝去を大きく伝えました。8日には都内の教育関係者を中心に成瀬の功労を表彰する会が計画されていましたが、急遽、追悼会とし、東京「基督教青年会館(通称神田青年会館)において講演会が行なわれました。

 葬儀は、9日午後2時より講堂において執り行われ、成瀬の遺志により、どの宗教にもよらない「告別式」の形がとられました。二千人を越える人々が出席し、大隈重信ら評議員の弔辞の後、成瀬が生前に卒業生に作らせた「告別の歌」が学生によって合唱されました。

 夕暮れの中、大勢の人々の涙に見送られ、柩は馬車で雑司が谷の墓地に運ばれました。「有限の肉体を離れて無限の生命」に入る旅立ちでした。

告別式

成瀬の死亡を伝える新聞記事

 


 展示期間=2009年4月8日(水)──5月22日(金)
 開館時間=午前10時 ── 午後4時30分
 休 館 日=土・日・月曜日、祝日